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競争と相手へのリスペクト [教育]

最近の学生と話をすると、人との競争は人間関係を悪くするのでやりたくないと考えている人が多いことに気づく。何故そのように考えるのか、私には不思議であったのだが、最近あることに思い当たり、それで非常に納得できた。
それは、最近の若い人は競争相手に対する尊敬の念、リスペクトをほとんど持っていないということである。競争相手とは、試験で点の取り合いをして、自分が相手より上回れば勝ち、下回れば負けという発想である。これが入試であれば、相手が勝ってしまうと、相手は合格だが自分は不合格になってしまう。したがって、競争相手は勝ち負けに関係なく排除すべき存在なのである。そこには、相手に対するリスペクトが全くない。
私などは、尊敬する相手と競争できれば、自分も随分と偉くなったものだと自己満足するし、たとえ負けたとしても自分の他人を見る見識眼の正しさを再認識できる喜びが有る。そのように、競争し切磋琢磨した相手こそ、本当に信頼できる相手であり、将来自分が何か困った時に自分を助けてくれるであろう頼りがいのある人脈である。
最近の学生は、そういう人脈をほとんど持っていないので、社会に出て困った時に親以外に頼るべき人がいないという困った状況になるのではないかと思う。困った時に本当に必要な人は、自分に無いものを持った、リスペクトできる、自分よりも優秀な友人なのである。
そう考えると、出来るだけ沢山の競争をして、出来るだけ多く負けて、出来るだけ多くのリスペクトできる友人を作ることが大変重要だと思う。もちろん、そのような人と友人になろうとすれば自分の良さを相手に認めさせることが重要である。そうすれば相手のほうも、今回は自分が勝ったものの、こういう点が素晴らしいということに気づき、長く記憶に留めてくれることであろう。そのような人物こそが、本当にリスペクトできる相手である。

新3年生の配属 [教育]

今年も新3年生が6名研究室に配属されてきました。全員、マイクロ波をやりたい、無線通信を勉強したいという強い意欲を持って研究室に来てくれています。最近の傾向として、大学生が就職のことをかなり早い段階から意識して行動するようになったように思います。しかし、これはうちの研究室の学生だけの問題ではありませんが、そのために自分から積極的に、あるいは能動的に何かをやるというところにまでには到っていないのが非常に残念です。まだ、私の研究室に来てくれている学生は何かしようと思っているだけでも一歩進んでいるのかもしれません。
その原因は、大きくふたつあるように思います。ひとつは、高校までの学校教育で、学生たちがやるべきことの全てを教師や親が指示してきたことによると考えられます。入試という難関を突破してきた彼らは、指示通りにこなすことに長けていた優秀な学生です。もうひとつは、就職して社会に出た後に何が必要になるかが分かっていないことによると思います。就活に際しても、会社説明会や会社の概要程度は調べますが、就職後にどのような仕事をするのかや、そのために何が必要なのかのイメージをほとんど持っていないのが実情ではないでしょうか。
これらに関しては、学生側の問題と大学を始めとする教育する側の問題の双方が相乗効果をなし、前述のような状態を作り出しているのではないかと思います。これは、社会にとっては非常に大きな損失です。社会に出て力量を発揮できる人材を育成することは大学の使命です。学生に対しては長年慣れ親しんできた意識を改革させるようにするとともに、大学もこれに対応した社会から必要とされる高等教育を行っていくような変革が必要と思います。

マイクロ波学生コンテストでの受賞 [教育]

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電子情報通信学会総合大会期間中の岐阜大学で開催された2012年度学生マイクロ波回路設計試作コンテストで私の研究室の学生が4名受賞しました。参加3部門の最優秀賞を独占する3名の受賞と特別賞1名です。これに先立つデザインレビューでも、受賞者4名を含む13名の学生が合格証書を授与されました。今年度のテーマはマイクロ波フィルタの製作でした。
昨今、学生の物作り能力の低下が叫ばれ、日本の技術力の相対的な低下が危機感をもって懸念されている中、本当に学生たちは頑張ったと思います。受賞した学生だけでなく、それ以外の多くの学生がコンテスト前日の深夜になるまで調整作業を続けた努力の賜物です。
学生たちが製作したフィルタには、従来なかったような非常にユニークなものもありましたし、特性がプロ顔負けの物もあり、大きな可能性を示唆するものでした。また、誘電体同軸共振器を使ったフィルタなどは、かつて日本のお家芸的なフィルタで最近技術を継承する人がほとんど無くなりつつあるフィルタですが、コンテストを機会に技術の継承が出来、非常に意味のあるコンテストになりました。
昨年度のアンプ製作のコンテスト参加では尻込みをする学生が大半でしたが、そのコンテストで研究室の学生が受賞したこともあり、今年度は多くの学生が意気込んで参加しました。さらに、学生同士でフィルタの特性を競った結果、前述のように非常に素晴らしい結果となった訳です。最近の学生は意欲がないなどという話をたびたび耳にしますが、そんなことは決してないと思います。今まで、こういった成功体験がなかったからではないかと考えられます。やはり、教育というものは、学生に結果を出させて意欲を高めることが重要だと改めて感じた次第です。

体罰問題について [教育]

最近、巷では体罰問題があちらこちらで話題になっている。そこで、以下に私の考えを述べる。
まず、体罰の位置付けであるが、私はそもそも、「指導」と「暴力」しかないのであって、その間に体罰という物理的力を伴った指導などはないと思っている。世間では、その境目がどこにあるかということが議論になっているが、そんなことは極めて簡単なことである。練習なり学習をする動機が、もし暴力が嫌だからということになれば、それは明らかに暴力であって、どんな理由付けをしようとも決して指導とは言えない。
次に、「体罰」と称される指導が効果があるかどうかである。もし、本当に体罰に効果があるのならば私も真剣に導入を考えたいと思う。私は、マイクロ波工学を教えているのであるが、その基本は数学と物理学であり、学生にとって習得するのは非常に難しく、どのように教育したらいいのか、常に頭を悩ませている。もし、学生を殴ることによって、学生が容易に数学や物理学を理解するようになるのであれば、それは本当に効果的な教育であり、真剣に検討するに値するかもしれない。しかし、私には、学生を殴ったところで、数学や物理学を理解するようになるとは全く思えないのである。ところが、運動系の教育においては、体罰は効果的であるという指導者がかなりいる。数学や物理は頭を使う学習であるのに対して、運動系は体を使うので体罰の意味があるなどという論理が成立つであろうか?私はかなり懐疑的に考えており、やはり、そこに体罰が有効であるという論拠は全くないように思える。
そして、私が最も言いたいことは、指導者の姿勢であり考え方である。私は、体罰を支持する指導者の指導に関する考え方が根本的に間違っていると考えている。すなわち、指導者たるもの、弟子たちが如何に楽に少ない努力で先人の領域に達することができるか、その方法を教えることが重要である。しかしながら、多くの指導者は、弟子が先人と同じレベルに達するのに、先人が経験したのと同じ苦難を経験することによってのみ、達成されるべきだという考えに囚われている。しかし、こうして先人と同じ苦難を経て同じレベルに達した弟子たちが、先人を超える成果を達成することが出来るであろうか。私は、それは無理であろうと思う。最近の日本のスポーツ選手が、世界記録や日本記録を更新できないのは、このためでないかと考えている。自分が何十年も掛けて努力し達成できたことを自分の弟子や生徒が短期間に簡単に達成してしまうのは面白くないと考えているからかもしれないが、これは全く間違っている。そして、弟子たちが楽に簡単に最高レベルに達するために、体罰が必要かというと、全く逆ではないかと思う。結局、指導者に指導の能力が無いのを体罰で誤魔化しているに過ぎない。

学生の将来に関する心配 [教育]

私自身、最近、授業をまともに聞いていない学生や研究指導をあまり熱心に受けていない学生にできるだけ辛口の意見を言うようにしているが、これは決してそのような学生に対する怒りからではなく学生の将来を非常に心配してのことである。そのような大学生活を送った学生が企業に就職した後どのようになるかを学生は全く知らないし、先生たちも、私のようについ最近まで企業に在籍していた人間を除いて実態を知らないのである。
今でも大学の多くの先生は、学生には在学中に教養や基礎的な学力さえ身に付けさせておけば、仕事に必要な専門的知識は入社後に会社が教育してくれると信じて疑わない。日本の企業が終身雇用制を堅守していた10年以上前はそれで良かったのであるが、現在このような形で社会に送り出された学生の多くは悲惨な結末を迎えているのが実態である。
私が企業に就職した当時は約1年間かけて新入社員教育が行われ、専門技術についても先輩が3年間程度はこまめに手を取り足を取り教えてくれる例が多かった。それは、一旦入社すれば定年まで40年近くその会社で働くため、3年程度掛けて教育してもトータルでそのほうがプラスになったからである。
しかし、最近では経済状況の変化に応じてリストラを頻繁に行い、また新入社員の側も退職金の前払いを選択し10年程度で転職を希望する人が大半を占めているのが実態である。10年で会社を去る人を対象に3年間も教育をするということは有り得ないのである。
そのために専門的な知識が乏しく仕事があまり出来ない若い社員が何人か出てくることになる。企業では、近年、きめ細やかなマネジメント手法の導入が進み、4、5人程度のプロジェクトごとに人件費、研究開発費を含めた予算管理と進捗管理、成果評価が行われている。そこで、5人のプロジェクトに例えば1人の仕事が出来ない社員が混ざると、後の4人で5人分の成果を上げないといけなくなる。そして、プロジェクトメンバーの疲弊が進み、それをまとめるリーダーの苦悩は大変なものである。リーダーはこの状況を打開するため、仕事が出来ないメンバーをどこか他の部署に引き取ってもらおうとするのであるが、ばば抜きのジョーカーと同じくなかなか引き取り手は見つからない。その結果、仕事の出来ない若手社員とリーダークラスの社員に心を病む人が急増しているというのが今の企業の実態である。
私の企業時代の部下にも精神的に病み長期休職したという若い技術者が実際に何人かいる。これは決して例外的な事象ではなく、今や企業における大きな経営課題になっている。
是非このような実態を多くの学生や先生たちに知って頂き、学生時代に何をすればいいのかを真剣に考えて頂ければと考える次第である。

公害企業と大学教育 [教育]

今、私が担当する授業で出したレポートの採点をしているが、毎回、非常にガッカリさせられる。友人と相談して教え合いながらレポートを書くことは認めているのだが、自分では全く考えずに丸写しで出してくる学生が多数を占めている。同じ計算間違いや写し間違いがあっても平気で出してくる学生が多い。大学で勉強する気が全く感じられない、学ぼうとしない「学生」は一体大学で何をしようとしているのであろうか。
私も企業にいた時、年々入社する大卒新入社員のレベルの低下に悩ましい思いをしたのであるが、大学に移ってきて徐々に実態がわかってきたような気がする。まず、大学全入時代になって、新入生のレベルがだんだんと下がってきていることが主要因ではあるが、それをそのまま社会に出し続けている大学の社会的責任は免れないであろう。
もちろん大学にとって学生数を確保することは経営上の重大事であり、入学生の確保と彼らを卒業させて社会に出すことは重要な責務である。しかし、だからと言って、大学生としてのレベルに達していない学生を社会に垂れ流すことは、かつての公害企業が汚染物を垂れ流しながら生産活動を続けた1970年前後の状況と全く同じである。公害企業にも、雇用を維持し社会へ生産物を供給し続けるという正当な大義名分はあったはずである。しかし、それでは公害病の発生などの社会的問題があり、その後の幾多の努力により、公害対策のためにコストを掛けながらも持続的な生産活動が出来るようになった。今では、それが社会にとっては結果的によかったと言える状況にあると思う。
大学にとっても、卒業生の質を維持するためにさまざまな改革を行うことには大きな痛みを伴うことが十分に予想される。しかし、これは何としてもやりきらなければ高等教育の継続的な維持発展はあり得ないと思う。
幸か不幸か、現代の日本社会はそれほど多くの「真の大卒労働者」を必要としていないように見受けられる。なぜなら、逆説的に言えば、多くの大学がレベルの低い卒業生を社会に送り出しても、企業はそれを受け入れて大きな問題なく企業活動を続けているからである。日本の多くの企業は、学生にあまり専門性を要求していないという残念な実態がこの「異論」の証拠である。
ちょっと話が脇道に逸れたが、言いたかったことは、大学の改革は一義的には大学自体が率先して努力しなければならないことはもちろんであるが、それを受け入れる企業を始めとする社会、そして学生の保護者の協力なしには不可能であるということである。前述の公害企業も、消費者が公害対策のコストを商品価格の中で負担してもらえることで初めてクリーンな企業に変身できたことは歴史が示すところである。大学、企業、家庭が一体となって本当に何が必要なのかを考える時期に来ているように思える。

相次ぐ学生の受賞に大きな喜び [研究]

ここのところ、私の研究室の学生が相次いで学会で表彰されました。

1件目は、大学院2年生のYA君がアジア太平洋マイクロ波会議で、STUDENT PRIZEを受賞したというものです。マイクロ波学会では、毎年、アメリカ、ヨーロッパ、アジア太平洋で3つの大きな学術会議が開催されていますが、今回はそのうちのひとつの学会でした。総投稿件数が世界中から800件弱、採録数が500件弱あるなかから、一般の部で5件、学生の部で5件ほど優秀賞が選ばれました。
国際学会での表彰ですから、うちの大学としては画期的なことだと思います。実際、私自身もこのような賞をこれまで取ったことはありません。
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2件目は、学部3年生のYO君がIEEE MTT-S KC主催の若手技術交流会のポスター発表でベストポスター賞を受賞したというものです。こちらのほうはIEEEという国際学会とは言えローカルな行事ではありますが、それでも参加者のうち3分の2が大学院生という状況で、学部生、しかも3年生が受賞したというのは称賛に値することだと思います。
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この2件の受賞を通じて強く感じたことは、頑張ってやっていれば誰にでもチャンスはやってくるものだということです。学生の能力は、磨かなければただの石ころですが、磨けば綺麗な宝石になるということを改めて気付かされた気がします。

中間発表会から3週間 [教育]

私の研究室では9月末に、独自に中間発表会を開催した。これは、学生たちの研究が遅々として進んでいない状況を打開するためと、企業に就職してからの仕事の進め方を習得してもらうためである。中間発表では、研究が世の中にもたらすインパクト、他研究とのベンチマーク、今年度末の具体的目標、解決すべき技術課題とそのためのアプローチ、そしてスケジュールを記した線表を発表するように学生たちに求めた。恐らく大学の研究室でこのような企業的な研究計画の発表を求める先生はあまりいないのではないだろうか。しかし、このようなプレゼンテーションは企業では日常茶飯事で行われており、学生たちも就職をしたならばすぐにでもこのような洗礼を受けることになるであろう。
これをやって気づいたこととして、学生の場合でも新入社員の場合でもそうなのであるが、ある目標を達成するために、それをより確実にしていく方法を知らないということである。研究の計画を線表に書かせると、ほぼ研究テーマ名と同じ名称のアクションアイテムを全期間に渡って1本線で矢印を引いているのである。例えば、「○○の小形化」という研究テーマであれば、「○○を小形化する」というアクション項目を10月から卒論を書く来年1月までかけて行うという1本線を引くのである。普通、こういうことを考える場合、「Aという手段で小形化が可能かどうかを検討する」、「Bという手段で小形化が可能かどうかを検討する」、「AとBの組み合わせが可能かどうかを検討する」・・・というように複雑な問題をいくつかの簡単な小項目の組み合わせに置き換えるということをするものである。
本人はこれで目標が達成できると思っているのだろうか?というか、どうやったらその目標を達成できるようになるか、そのやり方を知らないのである。これは、本人の能力の問題というよりも、それまで受けてきた学校教育の問題である。これまで彼らは、学校や家庭が用意してきた課題を要領よく短時間で捌いていく能力を求められ、それに習熟することで大学入試を突破してきたと言える。
ところが、複雑で困難な問題にどのように取り組むかは初めての体験である。こういう点から考えても、研究室に配属されての研究というのは非常に重要である。自分で、その問題に対する攻め方を考えることによってのみ、複雑な問題を解決していく能力が身につくと考えられる。我々教員も、ややもすれば研究でさえも教員のほうでお膳立てをしてしまい、学生がそのような能力を身に付けるチャンスを奪うようなことをしているのかもしれない。これは反省点であり、もっと学生に自分で考える能力を身に付けさせるようにしたいと思う。

夏季実習の講師をやって [教育]

現在、夏休み後半の学外実習が行われており、その一環として外部から講師をお招きし、「電気回路の製作体験」というテーマの学内での夏季実習を実施している。私も企業出身の講師として外部講師の方と一緒に2名体制で、その実習を担当させて頂いている。実習には約20名の学生が参加し、2週間にわたってオームの法則やフレミングの法則を実験により体感するものである。
電気に関わる基礎的な法則を頭で理解するだけでなく実験で体験することで、それを実際に利用できる技術力として身に付けるという非常に優れた実習カリキュラムである。測定器には自作のテスターやオシロスコープを用い、実験結果をアナログ量として評価するというのも、最近の学生にとっては貴重な体験である。学生には、毎日、実験結果のレポートの提出を求め、結果をしっかり考察するように指導している。
しかし、その実習の指導していく中で、日本の学校教育の問題点を痛切に感じた。というのは、学生たちはまじめに実験に取り組みレポートを書いているものの、自分の実験で得られた結果が妥当かどうか、また、その結果がどのような物理的意味をもつのかをほとんど気にかけていないように思えるからである。物理的に有り得ないような数値を平気で書いて出してくる。と言っても、学生たちにさぼろうなどという悪意があるようには見受けられず、ともかく、まず結果を書いてレポートを出すことが優先されている。それは、まるでテレビのクイズ番組で、わからなくても一か八か回答をしてみて、当たっていればチャイムが鳴り、外れていればブザーが鳴るという感覚なのである。
どうしてこういうことになっているかというと、彼らがこれまで受けてきた学校教育では試験で成績が評価され、生徒が書いた答案を先生がその場で○×で採点するというのが普通だからである。彼らは生まれてこの方、ずっとこういう環境で育っているのだ。
会社に就職して技術者として研究開発をする際に、彼らが実験をして得たデータを上司に持っていき、果たして上司はこのように○×で即座に採点するだろうか。上司も正解を持ち合わせていないのでそれは不可能である。このように、社会では、予め正答が用意されていて誰かが採点してくれるということはまず有り得ない、例外的なことである。
それにも拘わらず、学校教育では誰かが正解を用意していて採点してくれることが当たり前と考える学生をせっせと量産している。学校教育が現在そのような形を採っているのは、社会の中の疑似体験を効率良く行うという考えからであったと思う。ところが、最近は、社会自体が「疑似体験」と「本当の体験」の区別がつかなくなっているように思える。
誰かが正解に基づき採点してくれるという考えにみんなが浸っていれば、社会の進歩はなく、衰退をもたらすだけであろう。早急に学校教育の在り方を再考していかなければ、日本の将来は非常に危ういと思えてならない。

ほうれんそう [教育]

皆さんは「ほうれんそう」という言葉をご存じだろうか?漢字では「報連相」と書いて、「報告」、「連絡」、「相談」のことを言う。私も会社にいた時には、いろいろな事業部のいたる所でこのスローガンを書いたポスターを見かけたが、こんな小学生に言い聞かせるような幼稚な教育を大の大人にする必要があるのかと正直思ったものである。ところが、恥を忍んで申し上げると、私の研究室にもこれが出来ていない学生が多数いることがわかってきた。
このブログは企業の方にもたくさん読んで頂いていると思うので、こんなところで知られたくない内輪話をするのもどうかと思うのであるが、表面だけ取り繕っても仕方がないので正直に申し上げるとともに、改善に努めるための戒めとして敢えて書かせて頂く。
何が問題かというと、私の研究室では毎週土曜日にゼミを行っているが、これを連絡無しに無断欠席する学生が今年は多数発生しているのである。これは会社で言えば無断欠勤であり、社員就業規則違反なので一方的に解雇されても仕方のない行為である。私は研究の推進は学生の自主性に任せているが、ゼミを欠席する場合は事前に連絡するように学生と約束をしているので、明らかな約束違反だ。
また、研究を進めるにあたって、自分のわからないことを周りの先輩や同輩・後輩に質問したり相談せずにそのまま放置し、私が状況を尋ねると初めて「やり方がわかりません」と平然と答える学生が多くいる。
これらの行為に対して、本人は全く罪悪感はなく、何が悪いのか理解もできていないようだ。どうやら、社会で生きていく上での基本ルールをこれまで誰からも教えてもらっていなかったというのが真相のようである。すなわち、「報連相」の習慣は自然と身に付くものではなく、誰かが親身になって教えてあげないといけないと思われる。これが、最近、私が痛切に感じ、最も頭を抱えている教育上の大きな課題である。大学は社会に出る前の教育の最後の砦であるので、ここで何とか頑張って学生を教育していきたいと願う次第である。
私が会社にいた時の新入社員にもこういう基本ルールが身に付いていない人が何人かいた。そして、結局彼らがどうなったかというと、まわりの人との信頼関係をうまく構築することができずに次第に孤立し、最後はメンタル的な変調をきたして長期間療養のために休職するという残念な結果になった例がほとんどである。社会のルールが身に付いていないと対人関係がうまくいかず、精神的に大きなダメージを受けるのは避けられない。たかが「報連相」ということでなく、実は深刻な問題なのである。
こういうことは本当に本人にとっても不幸なことであり、彼らが卒業するまでには「報連相」の習慣をしっかりと身に着けさせ、社会で活躍できる人材を送り出していきたいと思う。是非、企業の方には、私の研究室を卒業した学生間は社会の基本的なルールがきちんと身に付いていると評価して頂けるようにしたいと考えている。
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